passarella2007-02-22


京都には歴史と文化の宝庫だと言われる、長い歴史が日本的という文化を育んだことは間違いない、さらに京都の文化を支えてきたのは何か、やはり町家だろう。
 京都の文化とは町家の文化と言っても過言出はないかもしれない、「数寄町家・文化研究/上田篤:鹿島出版会」によると、京都の文化を育み、その成熟を促す役割を演じた場所こそ、町家の奥座敷だと言っている。

 上田氏によれば、京都の文化を支えてきたのは、実は町家の奥座敷を活動の場としていた分限者・能衆と呼ばれた旦那衆だという。
 分限者とは家業は番頭に任せ、自分は悠々遊んでいる旦那衆のこと、能衆とはもはや家職も店もなく、先祖伝来の家作や田畑の上がりで生計を立て、茶の湯や花、名物の道具集めに世の憂さを忘れると言ううらやましい身分の旦那衆のことで、彼らは昼下がりから奥座敷で文化の担い手として、三味線等の芸事にいそしみ、夜になると着替えて、町に繰り出す。
つまり、京都の文化とは、南座歌舞伎座の晴舞台を頂点に町家の無数のコザシキを底辺とする巨大なピラミッド構造をなしていて、みんなそれぞれの局面で文化を楽しんでいた、そういう構造が江戸時代にができあがっていいたと言うことらしい。
 
 話しが長くなったが、茂庵を造った谷川茂次郎さんは、京都文化の担い手で、粋な旦那衆の一人だったのだろうか、茂次郎さんの人となりは良くわからないが、分限者の一人だったのだろうか、茂庵を思い出すに付け、茂庵に至るアプローチを思い起こすに付け、茂次郎さんのことが気になってしまう。

 茂庵は銀閣寺のある東山にほど近い吉田山中の広大な茶苑のほぼ頂上付近にあり、そこに至るアプローチは市中の隠といった趣があった。
 

谷川茂次郎さん