千葉山智満寺Ⅴ:神仏習合

 千葉山は、智満寺の境内に神社が建っている、日吉神社命名されている、ちょっと不思議な光景だ。
 千葉山が開かれた当時、今から約1200ほど前の奈良時代、遣随使の時代に大陸から仏教がもたらされたことは今さら述べることもないが、当時当然日本には土着の信仰(神道)があり神が存在したのに、なぜ、仏教が瞬く間に広まったのだろうか。
 亡くなられたノンフィクション作家の巨匠松本清張氏の”古代の終焉”講談社文庫を読むと興味深い記述がある。
 仏教が伝来した当時の日本は、天災や疫病によって社会が混乱し、国の政策の根本であった律令制度そのものの矛盾が噴出しだした時期と重なり、巡り合わせが良かったことなどと言われているが、もう一つ、当初仏教は今と違い現世の理想郷すなわち現世利益を説いていたらしい、これは当時の人々にとって受け入れやすい教え、神道も現世利益を説くが、仏教は大陸から伝播してので、清新であり、何にもまして、洗練されていた点が魅力的だったようだ、例えば、華麗にして荘厳な建築であり、装飾品であったり仏像であったり。
 で、国分寺建立の詔がだされて各地に、神社の近くには神宮寺が建てられるという、神と仏ごがり添った神仏習合が始まり、明治時代の神仏分離まで続いた。
 だからか、膝を叩くが、でも鎌倉以降起こった大乗仏教の寺院には神仏習合の形が見られないのはなぜだろうか?知らないだけかもしれないが
 千葉山は大きい、本堂から2〜300mのところにある日吉神社を横目に、道はさらに尾根筋までみちが延びていて、奥の院と呼ばれる社があった、そこには大人が5〜6人で手をつないでも回りきれないほどの幹廻りの杉の巨木が多数存在した、神の寄り代の巨木だ。