”安全・安心は自分で守らなければならない”か?

 14日の国会・証人喚問での姉歯氏の弛緩した表情には呆れるほかなかった、口では懺悔めいた言葉を吐いてはいるが、事の重大さを感じているとは思えない。
 彼をして、そう思わせる理由が、決して、彼の人格や資質以外の闇にあると確信をせざるを得なかった。
 ところで、構造強度を偽装したマンションの住民への公的支援(いや支援と言うより救済と言うべきか)の投入が決まった事による嫉妬や妬みか、また自己責任論が語られているようだ、ここではこの自己責任論の是非(一応僕の意見としては、「住居は人権」という立場だ、よって国民の人権が侵されるとき、国は人権を守らなければならない)には言及しないが、例えば、アメリカ産の牛肉輸入再開も含め”安全・安心は自分で守らなければならないか”という問題に直面している。
 僕たちは、この社会に暮らしていて、その暮らしの中でのリスクヘッジをどのように考えたらいいのだろうか。
 マンションや戸建て住宅の購入者の際のリスクヘッジは、建築確認申請の審査制度(国の関与)と施工者の瑕疵担保責任の義務、第三者の有資格者:建築士の設計監理ということになる、しかし、残念ながら、第三者の有資格者:建築士の設計監理はあまり認知されていない上、今回の事件でさらにダウンしリスクヘッジになり得ないと判断される可能性が高くなった、建築確認審査制度も書類審査も甘く、中間検査、完了検査の的確な実施も当てにできていない、さらに瑕疵担保責任さえ瑕疵の立証が住宅購入者側に有るため、購入者側に多大な労力と心労を強いる、もし立証できても当事者が、ない袖は振れない場合は履行されないということが明らかになり、上記のことはリスクヘッジに成り得ないのかという疑いと、怒りが生じてきた。
 となると、最後はやはり”自分しかない”、”安全・安心は自分で守らなければならない”という、自己の判断を他者に委ねない、そして行った行為の結果に責任を持つ自己責任論になることもあり得る、しかし、住まいの、食の、交通・輸送の、医療の、子供の安全はと考えると、暮らしのすべての分野で”安全・安心は自分で守らなければならない”は現実的でないことは明らかだ、さらに100%の安心・安全はあり得ないから、自分の考える安全・安心をどこで手を打つかも大きなポイントだ。
 ”どこで手を打つか”の判断の基準は、それぞれの分野でかなり専門的になるだろう、とするとこれも現実的でないことが判る。

  長いプロローグでしたがここからが本題。

 やはり、リスクヘッジは①に、建築確認申請の審査、中間検査と完了検査の仕組みを変える、例えば設計意図の確認や技術の内容のチェック、さらに民間の場合、株主は業界企業はなれないなど(業界企業は早く、安く、手抜きが身に付いているから)、②に瑕疵担保責任を誠実に履行するため、建築業者は万が一建物に瑕疵が発生した場合に備えて、保険に強制的に加入することを義務づける、③に、手前みそになるかもしれないが、信頼できる第三者:信頼できる建築士の設計・監理の信頼原則に求めることが現実的だと思う。
 この場合、信頼できる建築士とは、第一に属性、メーカーやゼネコン、工務店の企業内建築士、下請け(代願)建築士ではなく専業建築事務所を運営している建築士であること、第二に建築基準法の最低基準をどう解釈するか、基準法は必要最小限基準であって十分条件でないことを自覚していること(検査機関も同じことが言える)、第三に、設計・監理とは価値原則でなく信頼原則の上に成立することを理解している建築士ということになると考えられる。そしてこれらのことを拠り所としている建築士のみが、自己の内面に職能としてのプロ意識を生み、一方に事業者としてのコンプライアンスの遵守を確立できるのだと思う。

 よって、住まいの購入者がリスクヘッジのために身につけなければならない術は、人を見分けられる”目”を養うこと、住宅展示場を回ることや、住宅雑誌で勉強する前にである、そして、パートナーとして選択した専門家を上手におだてて、活用する術を身につけることだ。
 自己責任の原則は”人”を選ぶ時に適用されるべきだと思うがどうだろうか。