住まいの安全性の確保

 今回のマンションやホテルの構造計算の偽装問題は、つまるところ、住まいの安全性をどう考えるかと言うことだろう。

 ところで、住まいの価格を決定すろ要素は何だろうか、間取り(面積)、仕上げ材のグレード(キッチンなども含む)、デザイン(デザインが醸し出す気持ちよさや安らぎは空間の質と不可分)、性能が考えられる、しかし住まいの場合、性能については多くは語られることはない。
 住まいの場合、性能とは構造強度や防火性などの安全性、温熱環境や化学物質対策などの室内環境性能や耐久性など考えられる、住まいに限らないと思うが、一般的に安全性に関する性能を高めれば高めるほど価格は上がる、だから、価格と性能は正比例の関係にあるといってもいいと思う。
 では、住宅を取得しようとするとき、何を基準に見積もり金額の検討するのだろうか、坪単価が世間並みだから妥当と考えるのか、雑誌や住宅展示場でみた住まいと似ているから妥当だと考えるのだろうか、いずれにしても、安全性に限らないが性能を問うて価格の検討をしている事など聞かない。
 間取りや仕上げ材のグレード、時々デザインには”かしましい”が「耐震性をどのくらいにした場合のコストは?」とか、「防火性はどの程度でコストは?」とかは話題に上がらない、時にはそのことを軽視することさえある。

 建築基準法を根拠に性能を考えているとすれば、それこそ危うい認識としか言いようがない、例えば車を購入しようとする時、車の性能は選択の大きなポイントになるが、その性能は、きっと国の決めた安全性の基準をクリアーした上で、なお独自性を示すための機能ということになるだろう、住まいの場合この独自性を示す機能としての性能のが語られることは非常に少ない。
 だから、ヒューザーの小島社長は確認申請が通っているんだ、審査機関や国の責任と鬼の首を取ったか如く叫ぶが、残念ながら、建築確認申請は法的手続きだから、「とにかく建てればいいと」と、家を建てる最低の手順と言って良く、よってこの場合、住まいの性能は「まあ、この程度だ」「普通はこんなものだ」と言ったことは言えるが、具体的には「良くわかりません」となる。
 これは、購入者の性能に対する意識の希薄さ、無関心さ、国民が法に寄せる淡い思いと建築基準法は守るべきルールの最低基準を定めているにすぎないという乖離が、いい加減と言っていいような現実を生んでいるのだろう。

 例えば、建築主(購入者)の性能に対する意識の希薄さ、無関心さはこんな結果さえ招きやすい、もし住まいの性能を含めた品質が分からないまま住まいができてしまうと、「品質が分かっていないことは、客観的な判断ができないことに通じ、欠陥やトレブルを抱えている家とどこがどう違うか理解し、把握していないということになれば、欠陥やトレブルにたいしてリスクヘッジできない、だから自分が、その渦中に巻き込まれる」という結果だ。

 では、住まいの性能はどういう方法で手に入れればいいのだろうか、やはり、住まいの設計図である設計図書を作成することだろう、この設計図書とは建築確認申請用の設計図とは似て非なるもので有ることは言うまでもない。

 設計を省いて家を建てることはできるが、この場合の性能を含んだ品質は「信用してください」「任せください」となり具体的な性能は表現されない、品質は設計図書を作成して始めて表現できることを肝に銘じなければならないだろう、設計者は依頼主(建築主)からの与条件を満たすべく努力し設計をする、ただ、予算や設計条件により、与条件を完全に満たすことはできるとは限らないが、設計とは依頼主の要求を満たす物を事前に表現することであり、あるいは、品質を保証した客観的で具体的な性能(例えば耐震等級3とか)を表現した設計図書を作成することであって、間取りを造ることでも確認申請を代行することでもない、設計を省くと言うことは、「契約した建物の品質」が業者の主観になってしまう可能性が高いと言うことだ。

 一般的に、住宅購入者にとって、設計とは何をすることかが分からなければ、住宅メーカーや工務店のいう「設計はサービスです」になびくのは当然だろう、我々建築士は、設計図書を作成するメリットや意味を提示できなければ、設計というプロセスが生み出す価値を理解してもらうことを積極的に行わなければ、住宅メーカーや工務店に対抗できないばかりでなく、性能の含んだ品質の確保という建築士の本来の職務を果たすことができない、そして姉歯事件の教訓は得られない。