床の間の起源

 先日、建築士事務所の団体である静岡県建築士事務所協会創立20周年の記念大会があった。
 僕も支部の役員をしている関係で、裏方として式典にかり出され、会場で記念講演会の来場者の案内を担当した、その際冷や汗を掻いてしまう経験をした。

 来場者の一人からこんな質問を受けた。
 ”私は書をたしなんでいるが、床の間に飾る書は、どんな種類の書が良いのだろう?”
書にはほとんど知識を持ち合わせていない、ただ、真・行・草という書風があるのは知っている、秋祭りの”のぼり”は左右書体が違う、向かって右が行書体で左が真書体となるように建てることはぐらいは分かる。
 一瞬、どう答えて良いか答えに窮してしまい、口ごもってしまった。

 しばしの沈黙の後”床の間は、書院造りの上段の間が、普遍化して床の間になったといわれています、言ってみれば格式のある空間として、ハレの間の象徴的意味を持って成立したんでしょうね、だから、飾る書は格式があった方が良いかもしれませんね。”
”しかし、茶室はそうでもないじゃないですか?”
と彼。
そうだよな、茶室は格式のとらわれない自由な発想でつくられ、様式さえくずし、簡素化されたな空間でもあるな……と。

 ”そうですね、でも、確か、床の間の発展?の具合は2つに別れ、一つは武士の住まいで真・行の空間として洗練され、もう一方は茶室の代表されるように、床は鑑賞空間として洗練され今日に至っていると思います。”
 最終的には、日本建築に造詣の深いメンバーの助けを借り、絵画以外あれば、特に気にすることもないだろうということに落ち着いた。
 納得していただいたかどうか。





”やつしの空間”*1で熊野好夫氏は、

床の間が、正面性をもった格式のある空間の象徴的装置として生み出されたのは、江戸時代以降の武家文化であり、それ以前は、むしろ私的な主人の部屋として、日常的な道具などが並べられる「ケ」の空間であった。

 という。さらに

中村利則氏の説に従い、

醍醐寺文書に納める「三箇吉事雑記」大日本古文書儀礼の記録から、発生当時の床は儀礼性のシンボルとして機能をしていなかったと

述べている。

 また、

江戸以降の武士文化が、床の間に正面性を強調して、主君が座る対面所の様式を完成させ、それ以降日本の住まいの伝統が築かれた。
一方、床が本来もっていた私的な空間としての性格は、茶室にいかされ、書院の床の正面性に対する、非正面性の床の間に繋がったと

述べている。

 僕が設計させていただく住まいでは、和室には当たり前のように床の間をつける、が、正面性か非正面性かあまり考えず設計したことも事実で、反省。

*1:空間の原型 筑摩書房