泊原発再稼働? 過ちて改めざる、これを過ちと謂う。   

 民主党の前原政調会長は28日、都内で講演し、全国54基の原子力発電所の中で唯一稼働中の北海道電力泊原発3号機が定期検査のため運転を停止する5月5日までに、政府が再稼働の方針を示すとの見通しを示した。」…読売新聞

 最近、原発事故を技術的な問題、いわゆる技術への過信や想定の甘さなどに矮小化する論調が見られます、でも決して過信や想定の甘さなどではありません、ここを間違ってはいけないと思います。

 国は、原発の再稼働は、ストレステストの評価と地元の理解が前提だと言っていますが、そのこと自体が、我々の抱える不信感を理解していないことだと思います。
 ストレステストの一次評価、二次評価(二次評価をする気ないようですが)において、過酷事故に対する安全検証の妥当性が検証されたとしても、原子力安全イ委員会が安全だと宣言しても、再稼働にむけての本質的な課題はここでないはずです。

  その本質的問題は、今の原子力政策を可能にした制度、そしてその制度を支える組織(官僚・東電)、人材、アカデミズム、政治的利権の絡み合った構造にあるはずです。
 
 その構造的問題をそのままに置き去りにしたまま再稼働はあり得るのか。
  
 例えば、福島第一では、2004年の新潟中越地震で変電所が被災した教訓などから、2006年、全電源を失う事態を避けるため、電源設備を増強する計画が練られが見送られた。
 この工事費としては数十億の見積だったようだが、東電にすれば、危険回避の額として大きな額ではないはず、しかし、放置され津波に襲われた。

 このことは、技術への過信や、想定の甘さでなく、さらに安全性や経済性だということでもなく、リスクを看過しサボタージュする組織や人、そして、それを追認したアカデミズムと黙認した政治にあるのではないでしょうか。

 ”過ちて改めざる、これを過ちと謂う。”
 これら構造的問題を塗固したままでは、過ちを再生産するだけだだと思う。